昭和54年12月19日 朝の御理解



 御理解 第6節
 「目には見えぬが、神の中を分けて通りおるようなものじゃ。畑で肥をかけておろうが、道を歩いておろうが、天地金乃神の広前は世界中であるぞ。」

 確かに天地金乃神の広前は世界中である。本当に神の中を分けて通りおるようなもんじゃと教えて下さる。確かにそうだとお互い思います。その神の中を分けて通り通っておるようなその実感が、昨日のその御理解。それこそ神の息吹をここに感じる。神のお心が温かくこちらに通うて来る。だからそれを感じえなかったら、いかに神の中を通りおるようなもんじゃと、天地金乃神の広前は世界中であるぞと言われ、又教えて頂いてもたいしたことはないですよね。
 神の中を分けて通るようなその実感が、こちらにもひたひたとこう伝わってくる。そういうおかげを頂く事のために、お互い信心修行をしておるというても良いのですよ。おかげを頂くために信心修行させて貰っとるとじゃない。そういう神様を親の心がここに自分で感じられる。親の働きというものを、自分のいうなら体で心で受けとめられる。その実感が有り難い、いうならば信心の喜びと驚きと言う事になってくるんです。
 信心させて頂く者の喜び、日々が恐れ入ってしまうなぁという驚きの中に、信心が出きるようなおかげを頂きたいですね。昨日ある先生がお参りしてみえて、こういうお届けをなさいました。学院で同期であったかなんかでしょう。もう随分お年をとられた先生です。その方が教会修行を辞められて、お家に帰られたという話しを聞かれて、その方に電話をかけられた。そして合楽教会の話しをなさった。まぁ電話で長い間お話しをなさったそうですが、その先生がいわれることにです。
 私は家を持っておられるから、奥さんが何かささやかな商売をなさっておられる。先生はその教会に毎朝朝の三時から起きて、教会に参りました八年間。もう私が参りました時には大きな教会ですけれども、境内はもう草ぼうぼうで、もう本当にこんなことでは先代に相済まんと思うて、もう暫くはもう境内のお掃除と、教会内の清掃にかかりましたち。見違えるように立派になった。そうして8年間。朝の三時から起きて参りました。最近そちらでご普請がございました。
 ところがお家の方達のお部屋はそれぞれに出来ましたけれども、いわゆる教職舎です。ね、修行生の入る部屋が作ってございません。もう私はもうその時にもういよいよ幻滅を感じられた。その事だけが原因じゃなかったでしょうけれども、教会修行を辞めましたというて電話でのお話しであった。実は合楽教会でこうこうだと。今度合楽教会では教職舎が一番にできておりますが。もう屋根の銅版葺が終わりました。
 けども3階だての鉄筋コンクリの、銅版ぶきの教職舎ちゃ恐らく合楽だけじゃろうと思うですね。ご本部あたりのあの修行生、学院の生のあれなんかこう、ずらっと長屋んごたるとがあって、それをこうやってきってあるというだけのもんですよね。教職舎ちゅうのはそこの修行生、先生達が入る家ということなんです。ところがその方がご縁を頂いておられる教会は、普請は立派にできたけれども、しかもそういう大きな教会でもう修行生はいらんちうところじゃろうかと、私は聞きながら思ったんですけれども。
 それでまぁ幻滅を感じて、もう修行を断念したとこういわれるのです。それで合楽教会のことを話されたけれども、○○先生私はね、もういわば断念したというのはです、朝の三時から八年間、それこそ一生懸命御用もさせて頂いておかげを頂いた。けれども助からん者がどうして、合楽教会に行って助かるですかというて、プツッと電話を切られた。あぁ残念でたまらじゃったというお届けがここにございました。
 これせんしゃ先生だけのことじゃないでしょう。本当に一生懸命に、まぁ修行に打ち込んでおかげが受けられず、何かの拍子に信心を断念して、辞められると言った様な教師、信者が沢山ありゃせんでしょうか。打ち込めば打ち込んだだけ、そのいうならばショックは大きい。これほどの修行をさせて頂いて助かれんのですから、私が助かれるとは、もうどこでだって、助かられんと思いますとこういう。
 私はそれを聞きながら本当に朝の、私よりも15分先に起きなさるわけ、私は3時15分に起きるけん。そして一日中そういうような、教会御用に一生懸命打ち込まれたら、それこそ大変なお徳を受けられるだろうになぁというて、まぁ話したことです。だからそういう風に言えたり思えたり私はしてるんですけれども、なら合楽教会に例えばなら御神縁を頂いて、信心の修行まぁさせて頂いてもですね、ここで言われる信心を本気に取り組まなければ、それこそ本気で取り組みゃ誰でも取り組めれる。
 本気で取り組めばそれこそ信心が合楽の場合は有り難うなって、楽しゅうなってしかも愉快にまでなれれるといわれるほどしの、合楽理念を本気で行ずるならばです、本当に御神徳を受けるだろう。自他共に助かることが出来るだろうと。私は思うけれども、なら合楽でそういう、いうなら教導の中にあっても、それを守らなかったり行じなかったりしたんではやはり同じです。
 それこそ神の中を分けて通りおるようなものじゃと言う事が分かっても、その神様の働きそのものの中で、なるほど神様の働きに寸分違いはないなぁ。恐れ入ってしまうなぁ、有り難いことだなぁと自分の心に喜びを感じ、日々驚きの生活それこそいつも私が申しますように、神の中を分けて通りおるようなものじゃと。朝露のいうなら藪の中をこう分けて通りおるようなものじゃと。もう朝露が裾の方をぬらすような実感、さわさわと分ければさわさわと音が出て来る。
 そのさわさわと音のでる中を、裾のなら朝露でぬらして歩く実感。神様なるほど目にも見えなければ声もないけれども、疑えば限りがないけれども、なるほどそれだと信じて、合楽の頂いておる合楽理念の実行に移ったら、その音が聞こえてくるようになる。本当に裾がしっとると濡れるような実感が通うて来る。私は合楽で稽古するならここを頂かなければだめだと思うです。
 それは朝の3時から起きらんでもいい、一生懸命教会のご御用せんもでもです、その教えに本気で家業の中に取り組んでいくおかげを頂いたら、成程神の中を分けて通りおるようなもんだという実感が、ただその時間に浸れると言う事が有難いのであり、恐れ入ってしまうでありいうならば驚き、日々が驚きの生活が出来るんです。そして私はその先生に昨日話しました。今日はですねもう本当にあの全然私が知らないんです。現金封筒の手紙が参りました。どこの人じゃろうかと思うたけれどもどうしても分からない。
 しかもあのもう沢山のお金がその現金封筒いっぱいに詰めてあるんです。一万円札が、それが私はあこりゃあんた達は、知っとるかあのこの人どこの人じゃろうかというて、私は聞かせて頂いたら知らんという。それからあの信者名簿をくってみたけれども、分からんけれどもあのちょうど佐田先生がおりましたから、佐田先生にその封筒を見せましたら、はぁこの人はあの○○地区の共励会に行った時に、初めてお話しに聞き聞きに見えた方ですよとこう言う訳です。
 しかもその方は創価学会でございましたよというんです。もうそれこそ創価学会て皆さんもご承知のように、もう創価学会が一番で、もうほかんとはもう邪教だというような聞き方をされる宗教ですけれども、初めて合楽の共励会に出らせて頂いて、何かが分かったんです。悟れたんです。そして恐らくなら合楽建設なら合楽建設というのがね、合楽教会が思い立たれたのじゃない。神様が思い立たれた事と感じられたんでしょう。しかも神様が思い立ちなさったそのご造営にです。
 それに奉賛するということが取りも直さず、神様の心にそえ奉ることなんだと。真の信心とはこれだと言った様な、最近合楽で言われておるような話が、共励会場で話されたのではないでしょうか。だからいうならばそれこそ惜しげ足蹴ものしに真の信心に奉賛されるということになられたんだという風に、私は昨日解釈いたしました。話を聞いてなるほどと合点がいったら、実行に移さなければね、どんなに神様の中を分けて通っておるような中におかげを頂いておりましてもです。
 ただそういう神の中を分けて通りおるようなもんばいと、分かっただけじゃいかんでしょうが。その神様を心に感ずる。この体にそれこそ伝わってくる。昨日の月次祭の後のお話の中にもです、本当にそういう実感がこれに頂けれることのためには、辛いと思うこともあるけれども、そこを貫かせてもらうとその向こうにです、辛抱して良かったという、なまなましい神様の実感。いうならばここに息吹を聞くような、そこに温かみを肌で感ずるようなものが生まれる。
 皆さんどげな風のあんた達は、その神様の息吹をそこに聞く、神様の温かみをこちらへ伝わって来る様な体、験をした事があろうと、私は昨日研修の時に先生方に申しましたらなかち。なかちうことがあるもんの。あるくさいち。例えばいうなら御結界にあなた方が奉仕しようがのと。今日はいっちょん座るごとはない。もうはよう立とうごたる、眠うしてこたえんちゅうごたる時でも、それこそ一生懸命に金光様におすがりをして、辛抱してご覧なさい。
 辛抱した後には、はぁ辛抱して良かったと。もうそして最後の頃にはもうここば立とうごとねぇごつなろうがのと。それですよと実感は。まだ御結界奉仕のことだけじゃないです。皆さんの場合であってもやはりあろうと思うです。神様ちゃ有り難いお方だなぁと辛抱しぬいた向こうにそういうものがあるのですから、その辛抱しぬけばそういう有り難い、尊いものに触れられるという体験を積んでいくと、いうならばなかごというならば、辛抱しきれんごたる時でも。
 この向こうにはそういう、有り難いものがあるということが体験させて頂くと、そのこともまた有り難う、楽しゅうなってくるよと、いうてまぁ話したことでした。もう今日はきついけんご無礼しよう。そういうことではね、その神様のそういう生きた瑞々しい神様に合うことも、触れることもできません。信心辛抱とはそういうことなんです。難しいというのはそこんところが難しい。
 けれどもそれは信心の稽古をさせて頂いておる。一番いうならば素晴らしいところに、信心の有り難いところに、触れられることのための修行なのだから有り難い。しかも合楽理念に基づいてのこと。それこそ朝の3時から一日間一生懸命の御用させてもろうて、8年間も続いた。ある事でショックを感じた。そして教会修行を辞めた。そして○○先生あんたそう言いなさるけれど。
 私がこういう修行させて頂いて、助からなかったのですから、とてもどこどこに行ったから助かるとは思われん、ともう断念してしもうておられるということである。しかももう少し話そうと思うたら、もうプツッと向こうの方から電話を切られたとこ。けれども断念せずに、もう一遍ぐらいいってみなさい。そこに人が助かるということだから、というて話したことでしたけれども。ただガムシャラに修行したと、いうだけではいけんことが分かります。
 合楽で言われるなら合楽理念のじっ実践。実行。そこに必ず実証が生まれてくる。その実証を踏んまえての、信心修行させて頂いて始めて、神の中を分けて通りおるようなその実感がね、頂けれると思うんです。寝たり転がりしとって頂けるはずありません。信心の稽古をさせて稽古をさせて頂きゃ、始めの間は難しいごたるあるけれども、みやすうなって来る。それは自動車の運転ば覚えるくらいなもんだと。はぁとても自動車の運転なむつかしかと、というとったら何時までもむつかしか。
 本気で稽古する気になったら、ちゃんとそれこそ自分の五体の一分のごと車が動くごとなってくる信心もね、唯おかげおかげに終始せず、そういう信心の稽古をいわゆるなら本気で稽古に参ってきよります、お願いに参りよりますという信心が十年二十年続いたってだめですよ。おかげ頂いた時に有り難い。頂かなかったら時にはぐらりするち。そげな信心。稽古をせに。その信心の稽古がでね、合楽理念に基づいて稽古をせよと。
 昨日私は、皆さんにお話し聞いて頂きよったら、途中で御話が途切れてしもうた。どげん話していいやら分からんごとなった。だからあの神様にお願いをさせて頂いたら、あの栗を頂いたそすと、あのウニを頂いた。良く似てますよジガジガこうあってね。それでまたその事を聞いて頂いて話しを終わったんですけれども、信心をさせて頂いておってねジガジガする様な事。心配なること腹の立つ様な事が起こってくること。
 それはもう実に素晴らしいことであって、ジガジガのごたるけれども中を割ってみれば、あの珍味と言われるウニの実が入っておるように、ね、もうちょっと時期をまちゃこの栗がこう、微笑みかけてこう割れてくると中から、それこそ栗くりとした実が飛び出してくるように。このジガジガのところをね、合楽理念ではもうそれこそ微に入り細に渡ってです、それこそ合掌して受けなさいよ、成り行きを大事にしなさいよ。いよいよ土の信心に極まったという風に説くんです。
 だからそれを行じなければだめでしょうが。それが自分のものにならなければ。はぁもうもやもやすることが起こった。こりゃ神様がなんかこの向こうに、おかげばちゃんと用意してござるばいなぁと思うたら、そのことにお礼が言えるようなしん、いわゆる生き方にならなければ駄目だということです。心配せんでもよいことに心配をする。お礼ば申し上げんならん様な事に腹を立てる。
 何時も心がジガジガもやもやで合楽にいくら通うてきておっても、おかげは頂いても、今日私が聞いて頂くような神の中を分けて通るような実感をです、頂くことはできません。信心の喜びと驚きに、いうならばを感じながらの日々の生活。昨日最後に御説教の中にも申しましたように、25日にはここでまぁ恒例のなんですか、何とか感謝祭(感謝の夕べ)あ年末のじゃろうもう。(感謝の夕べ)だからその年末じゃけんじゃろうもん。(そうです)年末感謝祭のごたるこったいいうならの。
 その感謝の夕べというのがあるんですから。私はもう25日までにはね、もう本当に今年中のことを締めくくって、お礼の言えれるようなおかげを頂くように、皆ぃんなま私がお願いしよりますから。もう30日になった31日になって、バタバタせんですむごたるおかげを頂きなさいよ。借金払いも済んだあれも片付いたこれも片付いた。後の5日間6日間はもう本当に一年中のお礼だけで過ごせるような、一つおかげを頂きなさいよ。私がお願いをしよるから頂けますです。
 そのためには私がいうておるようなその実験実証をしながらの、いうなら25日まででなからにゃならんということなのです。さっち年末までばたばたせんならんち、せっかくいうなら感謝の夕べが25日にあるのだから。その時は本当に心から感謝の夕べであるようなおかげを頂くことのためにです。だからどんなに信心修行というても、その今の○○教会の○○先生じゃないですけれども、そういう人の真似の出来んごたる修行をしても、とてもこういう修行をしても助かられんのだから。
 助かられるもう見込みはないと自分で断念するような人達がね、沢山あろうと思うけれどもね、合楽の場合はそうじゃないて。私がいう本当に信心の稽古に、本気で取り組んだらもう今日から出来るんだと。昨日まではこりゃジガジガモヤモヤしよったばってん、今日はそのことに対してお礼ば言えれるようになったと。言う様な心をね、本気で開く稽古をしてご覧て。
 今年の締めくくりはもう25日で出来て、それこそ有り難い感謝の夕べに参加するような事が、おかげが頂けれると言う事でございます。始めて神の中を分けて通りおるようなもの。神の働きの中にこうやって浸っておる。その神の働きと言うのは、もう氏子におかげをやらずにおかんという氏子かわいいの一念だけの神様であると言う事を体験する事が出来る。神の中を分けて通るような実感をです、頂けれるための修行に一つ取り組まにゃいけませんですね。
   どうぞ。